昭和48年4月29日 特別報修委員 大坪かよこ
昨日信心実習をなさった皆さんが、誰もが、あの、同感であっただろうと思われるようなお届けを、今日皆さんから聞かせてもらって、ほんとに天地の働き、自然の偉大な働きというものを、目の当たりに見られて、感動されたとこういうね、今日のご理解は、痛いのが治ったのがありがたいのではない、いつもまめなのが、有り難いと、これが分かるのが信心だということですね。
ですから皆さんが、あの、しゅうほうどうで感動されたようなあの、ほんとに神様・・?なるということの素晴らしいことを、もう何でも無い、ね、例えばなんでもない景色のなかからね、あの、そういう感動がわいてくるようになることが、金光様のご信心ですよね。ね、もうほんとに、なんでも見えない、たとえばなら、もう、無色透明というかね、この空気なら空気のその有り難さというか、霊妙不可思議さというかね、もう、ほんとに、あの、人間が呼吸困難になったときに、あの酸素吸入なんかやります、て初めて、この空気の偉大さという、有り難さがわかるようにね、私どもはもうほんとにあの、いつもまめなのが有り難いと分かることなんです。どこにおってもだから感動なんです、ね、だからもう、しゅうほうどうに行かなければ、感動がわかんといったような、そりゃもちろん、わくことは、信心の無い人たっちゃ、そんな感動はおそらくなかろうと思うですたいね。けれども信心があるから、ほんとに信心の一つの情感というか、有り難、なんちゅう勿体無い働きじゃろうかというて、ことも有り難い。ご利益を頂くということは、有り難い、けどもそれよりもっと有り難いことは、もういつもまめなのが、有り難いということが分かること、そこが分からせたいのが、あの、天地乃親神様ですから、そこをいよいよ分からせて頂かなければならんと思うんですね。
先ほどから、あの田中さんがお届けされますのに、先日も上野先生にお取次願ったんですけれども、と言うてから話しておられる。もうほんともう私ごたある分からんものがあるじゃろうかと、もうこげんだこっでよかじゃろうかと、こげなおかげ頂いてからと、もう思やぁ思うほど、そのことのお取次を頂かなければおられない、ていう、もう、ほんに私ごとどうして、いつまっでん、分からんじゃろうかという、そのね、あの、悩めれるということが素晴らしいことだと思う。悩めれると、口に出してお取次ぎが願えれるということが素晴らしいこと。田中さん、あなた達も子供ん時から信心しておるばってん、今まではこげなとこなかったでしょうが、ち。そりゃもう参ってあげよるぐらいなこつじゃった。ね、もう長年、それこそ、まあ、小さいときからおばあちゃんに手を引かれてから、あの、善導寺の教会には、それこそしげしげと参られたことだろうけれども、ただお参りをしておるというだけで、ほんとにあの自分というものが、こげなこつでよかじゃろうかとか、こういうおかげというおかげにも気が付いていなかった。
ただお願い行く、おかげを頂くといったようなことは、神様であったのが、ね、あの合楽の場合は、私はここんところが分かっていくということだと思うですよね。
だから、あの、日に日にさらなものが生まれてくるんじゃないでしょうか。こういうことで良かった、こりゃもう、私がおかげ頂いていくのは、もうできはしませんけれども、おかげを頂いて信心もでけんのに、こんなおかげ頂いてこれに、どげな風にして応えたなら良いだろうか、という思いを寝ても覚めも思うとることですよね。だから、いついつんときにも進歩していくんじゃないかとこう思うです。
そこんところがあの、焦点に置かれておる、とりわけ、なら今日の御理解のように、例えばあの何でも無い、変哲の無い日々のこの中に、また、痛いのが治ったのが有り難いということよりか、平穏無事であるということに有り難いというものに気付かせて頂くというのはね、そういう信に田中さんが言われるように、そういう信心姿勢に、本気で取り組むところから生まれてくるんじゃないかとこう思いますね。私はもうほんとにあの合楽の場合は、とりわけそういう働きを頂いとりますから、田中さんをしてそういう風に思わしめれる働きというものが合楽には、そういう徳が合楽にはあるようです、ね。
昨日その徳とは、そう思わしめたり、そうさせる働きということ、ね、だからこれはやはり合楽の徳のおかげだとこう思うんです。
おかげを頂いてね、今日あの、福岡の野中さんたちが親子で参ってきとりましたから、話したことでしたけれど、あの、息子さんが今東京行っとります。
この頃、あの稔さんたちが親子三人で帰ってきた時に、あの、話しておりましたけれど、今度あの俳優学校へ行ってるんですよね、いろいろな働き、なんか、なんか自動車のいろんな工場、あんなとこで働いてるんですよ、昼は、そしてまあ、夜かなんかを、その俳優学校の方へ行っている。もうどれくらいになるでしょうか、初めて今度明治座かどっかで舞台に出るんだそうです。それでその、切符を売ってもらわにゃならんわけですたいね。自分で受け持っている。何十枚、それをその稔さんところに、ま、もう、あれが持ってきてから、押し付けて行ったとまあ、買わして頂いたという意味のことを、ね、お届けして、ほいでお前どういうことに出るのか、舞台に出てから、こやって、舞台を横切るだけらしいんですよね。もうそれでもやっぱ、初めてその明治座ていったような、桧舞台のね、あの劇場に出られるということがです、もう大変な感動らしいんですよ。して僕んちは台詞があるんですよ、というわけですよ。どういうことを言うかちゅうたら、そこから来よるとは、亀さんじゃないか、と言う言葉だそうです。
あん、そりゃ稔さんもそれを気付かんでいいよるし、本人はなお気付いとらん、私はなんかですね、身にぞくぞくするものを感じましたですね。ほんとに祈りの中にあるということ、それを私今日あの、あのお父さん達に、今日参って来たからね、もう、こういう働きをいただいとるとよ、と、向うから来るとは亀さんじゃないか、その亀さんていう言葉が第一、初めて舞台にいって、初めていう言葉が、台詞が、亀さんだそうです。
もう皆さん思い、分かるでしょうが、もうそういう働きの中にあるとお互いが、いつも、合楽の方たちは、そういう一つのお徳の中に、そう有らしめられておるということ、ね、たとえばなら、田中さんじゃないけれども、ならそういうことを言い習わしめるだけのものが合楽にはあるということ、こんなことで良いだろうかと、こんなおかげを頂いてと、自分のような者はどうして、いつまっでん分かそういうことを思わせれるらんじゃろうかと、だけのものを、が、合楽にはあるということ、ね、ですからそういう働きを身に受けさせて頂いてです、いよいよ有り難い、お願いしたことが成就したから有り難いのではない、その成就以前のもの、ね、願い以前のものの有り難いということにね、気付かせて頂かなきゃならないということです。どうぞ。